森博嗣著/「やりがいのある仕事」という幻想(朝日新書)を読んで
楽しみを見つけることは難しい。そんなことを森博嗣の新書を読んでいてふと思った。
そこに出てきたのは、仕事やあるいは物事全般を「楽しい」と思い込む人々の話だった。
さらには、周囲から羨ましがられたいとの思いから、「楽しい自分」を演出してしまう、そんな人々の姿だった。
僕自身、生活していくからには楽しく生活していきたいと思っているし、何かやりがいを見つけなきゃ、と焦っている部分も正直に言えば少なからずあった。
でも、森先生の鮮やかな人物描写を見ているうちに、「俺もそんな生き惑う人々と同じように焦ったり、迷ったりしながら好きなことを見つけていければいいな」というなんとも和やかな気持ちになったのは自分にとってもすごく不思議な感想で、この本を読んで良かったと思ったのはそういう部分だ。
本書の主張は、仕事という領域に限らず、「自分なりの楽しみ」を見つけた人生が最も幸福なのでは?というものだ。
自分中心に生きるか、他者からの評価に惑わされながら生きるか、の分かれ道がそこにはある。
楽しみを持っている人は、自分中心に生きることができる。
そうでない人は、自由を持て余し、自分で人生の舵を取ることに失敗する。
なんとも難儀な時代だと、この本を読んで思う。
僕自身、何度もインターネット糞食らえ、SNS糞食らえ、と思ってきた人間だ。
他人に対する見栄に疲れた人や、自分自身の生き方を見出せずに焦っている人に是非お勧めしたい。
それでもいいよ、と思わせてくれる要素がこの本にはあるようだ。
アンチ整理術(森博嗣著)紹介文
この本は自分自身の身の回りを整理・整頓することを通して、「自由な生き方」を手に入れよう、という趣旨の本である。
「自由な生き方」というと非常に広範な意味合いがあるが、要は、他人に惑わされない生き方、自己決定する生き方のことだ。
どうすればそのような生き方が手に入るのかというと、まずは「散らかった自己」というものを把握する必要がある。
自己が散らかっている、というのはすぐにはイメージしづらいかもしれない。この本の中では、理想と現実を客観的に把握できておらず、また周囲の目という「仮想他者」を過剰に意識した状態、ということになる。「仮想他者」というのは、人々が気にする他者という虚像のことであり、インターネット環境が整備された現在、ネット空間に存在する他者の目のことである。
こうした他者を過剰に意識し、理想と現実の把握ができていない状態は、極端に言うと、妄想状態、「夢を見ている」状態と言うことができる。
過度に高い理想に苦しめられた状態は人間にとって非常にストレスフルな状態と言える。
現実を真っ直ぐに見ない人はただの夢みがちな人にすぎない。
また、インターネット環境が整備された今の時代、「仮想他者」はネット空間の至る所に散らばった虚像と言える。
この状態を抜け出すことが大事だ。そうすることで、地に足のついた思考を手に入れることができる。
では、この状態を抜け出さない場合はどうなるだろうか?
端的に、夢の中に生きることになるのだ。
人々はこうした選択を生きている限り強いられていることになる。
しかし、この選択も自己の整理・整頓の内に含まれる。
つまり、こういうことだ。自己の整理・整頓とは、自分の価値観を整理すること。その上で、自分の現状、未来について考え尽くすこと。これは、自分の可能性を知ることにも繋がる。
自己の整理・整頓とは、自分一人で判断・決定し、行うことである。
これが、自分と向き合う生き方の面白さを教えてくれる。
これがすなわち「自由に生きる」ということなのだ。
整理・整頓する過程を通して、「自由に生きる」ことを学べるのが、本書の醍醐味だ。
村上春樹と勉強の哲学
村上春樹は勉強に対してすごく深い哲学を持っている。
彼の著書「村上朝日堂」に入っている「ビリー・ワイルダーの『サンセット通り』」というエッセイはそんな彼の勉強に対する哲学を垣間見ることのできる逸品だ。
彼が言っていることは、勉強というのは「正面切って」やることじゃない、ということだと僕は思う。
どういうことかというと、「さあ、勉強するぞ」と思って机に向かったとして、そこで行われる勉強は、なんというか、すごく機械的だ。
まるで、強引にさせられた校庭二十周の刑のように、全く美しくない思い出として、体がその記憶を止めていたとして、「ただしんどかった」程度のものになる。
その勉強の記憶が本当に後々に残るのか、という疑問がすごくあるのだ。
往々にして、意識的に行ったことというのは、忘れやすいものである。
そんな悩ましさが勉強にはつきまとう。
村上春樹のエッセイでは、彼が人間としてどう生きていきたのか、それが如実にわかるようになっていて、すごく面白い。
面白いのは、彼が映画学科に所属していたという事実である。
村上春樹が大の映画好きで、小説作法の大半を所属していた早稲田大学に付属する博物館でシナリオを読むことによって体得したことは、村上春樹ファンの間では、すでに語り草になっている。
彼によれば、「授業をサボるといっても映画科の学生が映画を見るんだから、これはれっきとした勉強である。」とのことだ。
誰にでも覚えがあると思うけど、授業サボって見る映画だったり、読む小説だったりって、すごく身に沁みるものだ。それが自分だけが見つけた分野の勉強だったりすると、「俺はまだ誰もやったことのない分野の勉強をしている」みたいな感覚に陥って、それがまさに特別感になって、勉強に身が入るものだった。
そんな風にして、村上春樹が勉強していたというだけで、なんとなく親近感が湧く。
そういえば、片付けの最中に見つけた漫画本なんか、すごく熱中して読んだりしていた。
感覚としてはそれに近いだろうか。
映画学科に所属していた若かりし頃の村上春樹を知ることのできる貴重なエッセイだ。
生きることとシンプルさ
生活スタイルを一新した。
理由は色々とあるが、「アンチ整理術」(森博嗣著)を読んだことが理由として大きいかもしれない。
様々なことに疲れていた。自分の手に負えないことを抱え込みすぎていたように思う。
本のいいところは自分では気づかないまま溜まっていった心の歪みに気づかせてくれるところだと思う。
「本の読める場所を求めて」(阿久津隆著)も同時に読んでいるが、この本も自分の生活について考え直す機縁として非常に有効だった。
どちらの本についても共通するのは生きていく上での原則のようなものが非常にすっきりしているということだ。何を求めているのか、そのためにどうするのが一番最適なのか、そうしたことがすっきりと述べられているので、読んでいるこちら側の姿勢がすっと良くなってくるのだ。
「アンチ整理術」は整理というものはそもそも必要なのか?といったように、そもそもの起点に立ち返って進められる論が心地よい。一辺倒の常識ではなく、常識と思われている固定観念から自由になって、「個人の生き方」を立ち上げようとする議論から、気づかされることは多い。
「個人の生き方」とはつまり、やりたいことがはっきりしている生き方である。そして、その実現のために様々なことを徹底して考え抜くということが、すなわち人生である、という単純明快な哲学がそこにあるように僕には思え、それがたまらなく明快な考えに思えた。是非真似してみたい、と思った。
シンプルさ、という点では村上春樹もそうだ。以前のnoteでも紹介し、僕自身、自分が生きる指針としてきた、「文章の書き方」にも、そのシンプルさが垣間見える。
村上によれば、文章の書き方に悩むくらいなら、生きることに専念しなさい、その方がよっぽど簡単でしょ、ということだ。
彼にとって、生きる、ということはシンプルで何より信頼するに足るものなのだ。
今まで、僕はこのエッセイを読むたびに、村上の言う「生きる」と言うことがどういうことなのか、わからなかったし、その言葉に込められた「何か」に非常な憧れを感じたものだった。
今、その理由がわかりつつある気がする。鍵は、シンプル、というこの概念だ。
本の紹介「自分なりの生き方を教えてくれる二冊」
自分なりの生き方というものに憧れがある。最近そういった生き方の面白さに改めて気づかせてくれた本が二冊ある。「オリジナルに生きることの面白さ」というのがこの二冊の本のテーマであると僕は勝手に思っている。
さて、前者の本においては、人がオリジナルな存在たりうるのはどういった時か、ということについて事細かに論じられている。
印象深いのは、誰もいない道の先に大金が落ちているのを発見した時に人がものすごい「ばくばく」感を感じるが、これこそ人が生きている実感を肌身に感じている状態なのだ、という謎の指摘だった。
僕はこの内田樹先生の比喩がとても印象に残り、こうした体験をしたくてたまらなくなった。自分一人が何かに気づいている状況って、確かにすごく甘美なものだ。
この体験を聞いて即座に思い浮かべたのは、大数学者のガウスのことだった。彼は天才の中でも相当な変態で、自分の発見を秘密裡にすることで有名な学者である。現在では歴史上最大の数学者に数えられる。
「楽しみ」というものは本来誰かに見せびらかすものではない、という主張は「『やりがいのある仕事』という幻想」(森博嗣著)の方でも展開されていて、微妙にかぶる内容ではある。
両先生が主張しようとしているのは、「オリジナルに生きるのってすごくワクワクするぜ」、「他人の価値観に振り回される人生虚しくね?」ということなのだが、どちらの先生もその論じ方は非常に個性的だ。
内田先生の本に出てくる印象的な文をもう一つ紹介する。「先生というのは、『みんなと同じになりたい人間』の前には決して姿を現さないからです。」
どうだろうか? なんとなくこの二冊のワクワク感が伝わり始めただろうか?
我々が生きている意味に気づかせてくれる二冊だと思う。人生に疲れ果てた人、何か人生に物足りなさを感じている人、そしてもちろんこれから自分の生き方に何らかのスパイスを加えようとしている方にオススメである。
僕の周りの変わった人々①Hさん
Hさんは若者に負けないくらいのエネルギッシュさを持っている。いつもギラギラと何かを追い求めてやまない永遠の夢追い人、それがHさんだ。
Hさんと僕は最初、あまり打ち解けなかった。それは両人の性質の違いによるところが大きい。僕はどちらかというと、のんびりとした穏やかなタイプである。ガツガツと何かを追い求めることが苦手だ。
最初、僕はHさんのこういうところが受け付けず、敬遠していたのだが、そのうちにHさんの純粋な部分が見えてきて、少しづつHさんを理解するようになっていった。
僕とHさんは現在同じ施設に通っていて、たまに一緒に帰ったりすることがある。そんな時、Hさんは非常に僕に気を遣って話す。そういう生真面目なところがまたHさんらしい。僕としてはもっとリラックスして欲しいと思うが、Hさんと僕の距離感が結構離れているからか、こうした不自然な会話になるところも、それなりに味があって、僕は好きだ。
実際、帰り際になると、僕はHさんのいいところを全然引き出せない。お互いに気を遣って、会話が収束してしまうのだ。未だ、僕はHさんの本心というか、本音というか、生の感情というか、そういうものには到達できていない。
Hさんは、時々すごく具合悪そうにしている時がある。そんな時、僕は、Hさんが生活面で無理をしすぎているのだろうな、と見当をつけている。
具体的に言うと、Hさんは歌の活動を本格的に行っているのだが、どうもそれが負担になっているみたいなのだ。
僕はこうしたことにすごく共感が持てる。僕自身、最近まで、何かに急かされるようにして、趣味の活動に打ち込んでいた。すごく不自然な体勢で、生活しているような感じだった。
Hさんも、生活面で何らかの苦しさを感じているのだと思う。そういった焦りが、Hさんを支配しているように思える。これは、僕自身がそうだったから、勝手に感情移入して見ているのである。
Hさんのアグレッシブさというのには、僕は非常に覚えがある。
『ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」』(村上春樹著、「村上朝日堂」より)感想文
勉強は嫌いだ、という人は多いと思う。僕は勉強に関する村上さんのこのエッセイがとても好きでよく読んでいる。僕も学生時代全く勉強しなかったのだが、でも何かしら毎日あったような気もする。でもそれを正面切って勉強とは呼びたくない。勉強に対しては誰でもそう言った二面的な感情を抱いているものだ。
村上さんのこのエッセイはその辺りの学生の勉強に対する「勉強しなくちゃ始まらないけど、それを勉強とは呼びたくない」という基本的な姿勢がよく表現されている。
勉強はしなきゃいけない、それはわかってるんだけど、何をどうしたらいいのかそんなに明らかじゃない。それに対して、村上さんは「とにかく遊べ」と僕たちを励ましてくれる。
村上さんの場合は映画学科に所属していたため、「授業サボって朝から名画座で映画を見る」のが日課だったようだ。しかしここで村上さんの筆は冴え渡る。「授業をサボると言っても映画学科の学生が映画を見るんだから、これはれっきとした勉強である。」とはっきりこう言うのである。かっこいい。勉強せずに勉強する、という村上哲学のようなものを感じる素晴らしいエッセイだ。
とはいえ、そんな村上さんも、「映画を見る金」には困らされたようで、そんなエピソードもこのエッセイにはサラッと書かれている。今の村上春樹を作った有名なエピソードなのだが、やはり、村上春樹は勉強家である。そのあたりの事情を知りたい人は是非このエッセイを読んでみてください。とても勉強になります。