ヒロカズの読書日記

このブログは、読書したことから、考えたことを書いていくブログです

内田樹著「先生はえらい」を紹介する

 最初に断っておきたいのだが、この本はえらい先生がいる、という本ではない。それにもかかわらず、先生はえらい、ということを主張する本である。何を言っているのかすぐにはわからない。まるで禅問答のようである。
 結果的に「誰でも先生になれる」という話が本の最後に出てくるほどである。
 引用してみよう。「教えるということは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、少なくとも見かけ上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。」これは内田先生が引いているラカンという人の言葉である。
 つまり、この本は、誰でもなれる先生という職業がどのようにして偉大なのか、その理路を解き明かそうとする本である。
 我々が先生を慕うのは何故なのか、という問いに対する答えも当然意外なものとなる。それは先生がえらくないからだ。
 もしえらい先生というものがいて、誰もがその先生を尊敬していたら、その先生は、この本の言う意味では「えらくない」ということになるのだと思う。
「先生はあなたが探し出すのです。自分で。足を棒にして。目を皿にして。」と内田先生は書いている。
 確かにそうだ。我々は自分が労をかけて見つけ出したものしか大切にしない。例えば、お気に入りのインディーズ・バンドのようなものだ。この本の文脈によれば、インディーズ・バンドはまだ誰にも知られていないがゆえに、そのバンドを見つけたファンの女の子にとって、「『私が私であること』のたしかな存在証明」となる。そのことがおそらくインディーズ・バンドが大切にされる理由なのだろう。
 この本が主張していることはある意味明快で、「人間は自分が学べることしか学べない」という当たり前の事実を確認しているだけとも言える。
 それは発信者が高邁なメッセージを発信しているというよりは、それを「高邁だ」と誤解してしまう受信者の方に学びの契機が存在しているのだ、という教えである。
 その意味では、自分の好きなものを見つける力、は学びの力と非常に関係の深い力だということができる。そして、好きなものが多い子ほど、自己肯定感が強い、という事実もこの本に書かれている理路で説明することができる。
 先ほどの、「『私が私であること』のたしかな存在証明」というものだ。人は誰にも見つけられていない何か、に気づいた時に最も精神が高揚とするらしい。確かに、思い出してみても、他の生徒からすると、ただのオヤジにしか見えない理科の教師とかに夢中になる生徒が必ず二、三人クラスにいたが、彼女たちは皆楽しそうにしていた記憶がある。
「いまの若い人たちを見ていて、いちばん気の毒なのは『えらい先生』に出会っていないということだと私には思えた」と内田先生は書いている。
 自分の日常がつまらないと思っている人に是非読んでもらいたい好著だ。