「終わった」という言葉と終わらない現実について
よくテンパっているときなどに、「終わった」という言葉を吐いてしまうことがある。
この言葉はなんとなく不思議なニュアンスを帯びている。
我々が「終わった」と言うとき、事態はまさに「始まっている」からだ。
言葉というものは往々にして反対の意味を帯びるものだが、この言葉もその例にもれず、「終わった」という言葉で終わりを意味するわけではなく、実際に含意しているのは、むしろ、「終わって欲しい」、「もしここで終わりだったらどんなに楽だっただろう」といった逃避の含意がある。つまり、「終わった」という言葉には、「終わらない現実」の残酷な刻印がまさに刻まれているのだ。
ゲーム中毒者は現実をリセットできると思っている、などとよく叫ばれたが、このステートメントには面白い含意がある。ゲームにおいて、最もリラックスする瞬間、最も心が安らぐ瞬間とは、たとえばマリオワールドなどで言う、マリオが「死んだ」瞬間、つまりゲームオーバーの瞬間である、という心理だ。
この心理により、我々は安心してゲームをすることができる。というより、ゲームの最も甘美な瞬間とは、やはり、このマリオが死ぬ瞬間だ、と言わざるを得ないと思う。
死ぬことができる、その一点がゲームの面白さを支えている。
最高に深刻な瞬間。緊張が最も高まった時、往々にして我々の手が滑り、キャラクターは奈落の底へ落ちていく。そこにある安心感。
我々が現実において、「終わった」と口にするとき、事態は全然終わらない。
当たり前だが、現実においては、その終わらない悪夢とともに生きるしかない。
我々は何度も死の予行演習を重ねて、それに備えるしかないのだ。