村上春樹と勉強の哲学
村上春樹は勉強に対してすごく深い哲学を持っている。
彼の著書「村上朝日堂」に入っている「ビリー・ワイルダーの『サンセット通り』」というエッセイはそんな彼の勉強に対する哲学を垣間見ることのできる逸品だ。
彼が言っていることは、勉強というのは「正面切って」やることじゃない、ということだと僕は思う。
どういうことかというと、「さあ、勉強するぞ」と思って机に向かったとして、そこで行われる勉強は、なんというか、すごく機械的だ。
まるで、強引にさせられた校庭二十周の刑のように、全く美しくない思い出として、体がその記憶を止めていたとして、「ただしんどかった」程度のものになる。
その勉強の記憶が本当に後々に残るのか、という疑問がすごくあるのだ。
往々にして、意識的に行ったことというのは、忘れやすいものである。
そんな悩ましさが勉強にはつきまとう。
村上春樹のエッセイでは、彼が人間としてどう生きていきたのか、それが如実にわかるようになっていて、すごく面白い。
面白いのは、彼が映画学科に所属していたという事実である。
村上春樹が大の映画好きで、小説作法の大半を所属していた早稲田大学に付属する博物館でシナリオを読むことによって体得したことは、村上春樹ファンの間では、すでに語り草になっている。
彼によれば、「授業をサボるといっても映画科の学生が映画を見るんだから、これはれっきとした勉強である。」とのことだ。
誰にでも覚えがあると思うけど、授業サボって見る映画だったり、読む小説だったりって、すごく身に沁みるものだ。それが自分だけが見つけた分野の勉強だったりすると、「俺はまだ誰もやったことのない分野の勉強をしている」みたいな感覚に陥って、それがまさに特別感になって、勉強に身が入るものだった。
そんな風にして、村上春樹が勉強していたというだけで、なんとなく親近感が湧く。
そういえば、片付けの最中に見つけた漫画本なんか、すごく熱中して読んだりしていた。
感覚としてはそれに近いだろうか。
映画学科に所属していた若かりし頃の村上春樹を知ることのできる貴重なエッセイだ。