自作小説「本屋」
本屋をぶらぶらするのをやめた。
本屋には何冊もの新刊が積まれている。
こうした本の中からお気に入りの一冊を見つけるのは至難の技だ。
どうして我々はこうした魅惑から逃れられようか。
ある日一冊の書物が我々の人生を変えてしまうかもしれない。
そして実際いつも見かけたお客がある日パタリと姿を見せなくなるのだ。
「ああ、あのお客さんもついに運命の一冊に巡り合ったのか」
そんな落胆の声が本屋の中で囁かれる。それがいつもの本屋の光景だ。
いつものように新刊を眺めていたのはとある晴れた日曜の朝のことだった。
その日ちっぽけな一冊のしなびた本が目に入った。
個人出版のうさんくさい表紙を眺めながらなんとなく不吉なものを感じた。
僕はこの本を買わなくてはならない。決して買いたいというのではないが、この本を無視して通り過ぎることはできない。そんなざわめきが心の中を吹き抜けて行った。その本に書かれている言葉は僕の知らない国の言葉だった。
これまでの日々、幾度となく誤解を受けてきたことを思い出した。かつて、僕の人生は今よりずっと過酷なものだった。というか、僕の本当の人生は今よりずっと過酷だった。
なんとなく、そんな気がしたのだ。カフェの平和な光景が目に浮かんできた。そこに染み付いた年月のことが頭に浮かんできて、僕は不意に頭が痛くなってきた。
その日、部屋に戻ると、不在票が入っていた。「至急、取りに来ていただきたいものがあります」と不在票に書かれている。僕は急いで郵便局に向かった。数週間前から待ち望んでいた品物だ。そこに書かれていたのはなんとなく見覚えのある言語で、それは新しい僕の名前だった。そのヘルメットは随分傷だらけで痛んでいたが、かぶってみると、懐かしい匂いがした。
「どうしてこんなに痛んでいるんだい?」
郵便局員の驚いた顔に僕ははっとなった。遠い記憶。もう戻れない過去。