ヒロカズの読書日記

このブログは、読書したことから、考えたことを書いていくブログです

わからない、について

 今回は「わからない」という状況のもたらす利点について書いてみたい。これもかなり変な話だが、注意して聞いてみてください。
 さて、一般に「わからない」というと馬鹿の代名詞のような意味であったり、脳味噌が足りていない、というような印象を人に与えてしまう、ネガティヴな意味合いがある言葉として一見認識されていると思う。今回はそのことをあらためて考えてみたいのだ。
 非常に簡単な例として、名探偵コナンのようなテレビアニメについて考えてみたい。子どもたちがテレビアニメを見続けることのできる理由として結末がわからないから、というのは誰もがわかる理由でありながら、このことの価値は一見して、見過ごされている。
 すぐにわかることだが、テレビをつけた瞬間に犯人がわかってしまうような天才児がいたとすると、その子どもは、ある意味で逆に不幸なのだ、と言える。なぜなら、その子どもは、全くテレビを楽しめないだろうから。
 ここで注意してほしいことは、結末がわからない、ということは、ただ単にテレビを楽しめる、ということに限らず、さらに重要なことを示唆してもいるということだ。それは、わからない、という状況は人間をしばしば釘付けにしてしまう、ということだ。このあたりの事情をもっと詳しく述べてみたい。
 人間は何が起きているのかわからないときに取る行動というのは大体一つしかない。繰り返す、ということだ。これは言い換えれば中毒性という言葉で表せるのだが、この繰り返しというのがわからない、が持っている最大の効用ではないか、と思うのだ。
 その最たるものが、小説にハマる、小説でなくとも何かにハマる、と言われている現象で、あれはある意味脳味噌が馬鹿になってしまっているのである。つまり、わからない、ということの快感に、脳味噌が浸された状態、それがハマるということだ。
 このハマる、というのの何がいいかというと、もう、全く苦労せずに繰り返しというものが実現されるからだ。本来人間は繰り返しに耐えられないようにできているのだが、わからないことに関してだけ、この繰り返しは、むしろ幸福となって現れる。
 その結果、本来なら習得が難しい技術などがあっさり習得されてしまうということが起こりうる。わからないことの効用は、こういったところにあるように思える。学習と、「わからない」の間には深い関係があるような気がしてならない。このあたりの事情を、内田樹先生は、「先生はえらい」という本の中で、こう表している。「『無知』に支えられない限り、人間は創造的になりえるはずがないのです。」
 ここで、内田先生は、芸術家の創造の動機が無知であることを述べている。わからない、ということは、決して恥ではなく、むしろ何かの始まりなのだ。

 

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 

 

「知りません、わかりません」(村上春樹著「村上ラジオ3」)を読んで

 勉強というのは欲得ずくでするものではない、とつくづく僕は思っている。
 欲得ずくでなされた勉強は大した役には立たないのである。
 何故だろうか?
 学びというのは実はそれがどこでどう役立つかわからないという場合に最大の効果を発揮するからだ。
 村上さんのエッセイにそのあたりの事情が色濃く感じられる。
 現在小説家として活躍する村上さんだが、
「中学生の頃、少しでもたくさん世界の知識を身につけたくて、百科事典を最初から最後まで読破したこともある。」と書かれている。村上さんは百科事典から何を学んだのだろうか?
 ここでの答えはかなり意外なものだ。
 「で、百科事典を読破してそれが何かの役に立ったかというととくに立ってないみたいだ。」と呆気ない。しかし、これは文字通り役に立っていない、という意味ではないと僕は考える。
 どういうことだろうか?
 彼が言いたいのはおそらく、この時の知識は直接は何かの役に立ってないよ、ということではないのか?
 役に立つというのは非常に深淵な何かを秘めている。
「きっと人にとっていちばん大事なのは、知識そのものではなく、知識を得ようとする気持ちと意欲なのでしょうね。そういうものがある限り、僕らはなんとか自分で自分の背中を押すように、前に進んでいくことができる。」と村上さんは書いている。
 僕はこれをこう言い換える。「人間はあらゆる経験を糧にできる生き物である」と。
 このエッセイに述べられているのは、本当はすごく壮大な話だと思う。
「小さく縮こまるな。大きく生きろ」そんな村上さんの声が聞こえるようだ。
 このエッセイは学びの壮大さを書いた素晴らしいエッセイだ。
 そして、タイトルは「知りません、わかりません」。なかなか奥の深い話である。
「小説家になった喜びを深く感じるのは、素直に『知りません』と言えるときだ。」という一文が心に残る。

 

村上ラヂオ3: サラダ好きのライオン (新潮文庫)

村上ラヂオ3: サラダ好きのライオン (新潮文庫)

 

 

noteの有料コンテンツを買わねばならない理由と本屋で売ってる本を買わねばならない理由の違いと情報の価値について

 noteの有料コンテンツの未来について考えた。
 情報の価値について深く理解するために、従来の本屋で販売されている書籍と、noteの有料コンテンツの違いについて洗い出してみるのは有益なのではないかと思う。
 簡単な相違点として、noteの有料コンテンツと、書店に並べられている書籍では、お客さんがそれを「買わねばならない」理由が全く違うと思うのである。
 どういうことかというと、noteの有料コンテンツは、「先を読みたい」ということによって、読者に購入を促すのだが、一般の書籍を読者に購入させている理由は、主に、そういった好奇心の領域の問題ではないのである。
 簡単に考えて、一般の書店ではお試し読みが推奨されており、本の内容は基本的にどこでも読み放題だ。それにも関わらず、その書籍を購入したい、と思うのは、それがすぐにその場で「読み切れない」からである。
一般の書籍の場合、購入を促す直接の力となっている大事な要素として、書籍そのもののボリュームという要素がある。このボリュームというのは、量、質、両面からのものだ。
 書籍というものを語る上で非常に重要な利点とされている「コストパフォーマンス」というものがある。
 たった100円の古本で買った文庫本が、数時間の娯楽として成立しうるアレである。
 これが成立するのはなぜなのだろうか?
 ここにこそ、書籍というものの持つマジックがあると考えられる。
 書籍というものは、逆説的なようだが、咀嚼に時間がかかるものだから売れているのである。
 さて、この咀嚼に時間がかかるという性質が書籍の最大の利点であるとしたら、noteの有料コンテンツはその逆を行くしかない。つまり、いかに食べにくいものを食べやすく調理したか、という価値観である。
 noteの投稿分量が少ないことからして、できるだけ咀嚼しやすいものを短時間で読めるように提供する、というのがnote有料販売のコツかも知れない。
 いずれにせよ、情報というものの価値が書籍とnoteの有料販売では全く違っている。

落ちこぼれと内田樹

 大学院時代、作家になりたくて、唐突に大学院を退学した。
 それからの歳月、読書を大量にこなしたが、ある日、次のような一節に出会った。
「この人の言葉の本当の意味を理解し、このひとの本当の深みを知っているのは私だけではないか、という幸福な誤解が成り立つなら、どんな形態における情報伝達でも師弟関係の基盤になりえます。書物を経由しての師弟関係というのはもちろん可能ですし……」
 この一節に当時の僕が求めていたことの全てが書かれていたのだと思う。

 大学時代、僕は究極の落ちこぼれ学生だった。学びというものからの逃走。何をしたらいいのかわからず、ひたすら自分の好きな読書だけを黙々とこなす日々。不思議と不安はなく、なんとなく日々は過ぎていったが、悪夢は頻繁に襲ってきて、僕を苦しめた。
 当時頻繁に見た夢は、高いところから落ちる夢だ。これはインターネットで調べてみると、思春期の不安を抱えた青年が頻繁に見る夢なのだという。まさに当時の僕がそうだったのだろう。
「いまの若い人たちを見ていて、いちばん気の毒なのは『えらい先生』に出会っていないということだと私には思えたからです。」
 この「先生はえらい」という本を書いた内田樹さんの言葉に、僕は自分の存在が抉られるように感じた。
 これまで、漫然と読書してきた歳月を呪うようにさえなった。あれほど好きだった読書という作業が、内田さんの観点からするとまるで遊びのようなものに過ぎなかったからだ。
 僕は村上春樹の小説がものすごく好きだったが、その内田さんの本を読んだことをきっかけにして、村上春樹の文章に再入門してみよう、と思うに至った。
 今度は一読者、としてではなく、一弟子として、彼の文章から学ぶことを目標にして。
 それがこの度、noteで文章を投稿するきっかけとなった。
 内田さんの書いた著作に僕の学びの原点がある。

 

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 

 

継続と一人の小説家(村上春樹著「職業としての小説家」感想文)

 何かを継続するにあたって、淡々と、というのは非常に重要なことなんだなあ、と思う。
 特別なことはしなくていい。きちんとやるべきことをこなしていけばいいのだ。
 そんな感慨を抱く時、僕は村上春樹さんの「職業としての小説家」という本を思い出す。
 この本には村上さんの小説家としての生活がかなり具体的に、そしてその生活において行われる作業がどんなものなのかが率直に語られている。
 驚かされるのはその作業が非常に地道に続けられているということだ。
 村上さんの長編執筆時の作業目標は、「一日パソコンモニター二画面半(原稿用紙10枚)」というもの。
 ここで村上さんはアイザック・ディネーセンの言葉を引用する。それがとても印象に残る。「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」
 この本は、何かを継続する、ということに直面している全ての人にとって、重要な何かを語っているように思える。
「時間を見方につける」と題された章で、温泉の話が出てくるのも非常に興味深い。
 それは優れた小説には、温泉に浸かっている時のような特別な温かみがするというのだ。
 何かを継続することと、そこに生じる肌身に感じられる温かみ。我々の作業は、そうした温かみを誰かに届けられるものなのだ。

 村上さんがこの本で語ろうとしていることは、「効率性」と対極にある小説家としての自分の仕事のスタイルなのだろうと思う。「小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。」と実際に村上さんはこの本の中で語っている。
 しかし、話が温泉の温かみに及んだとき、一見理解しにくいこのような非効率性についての言及がどのような意味を持つのかがわかってくる。
 実際、何年も作家として活動してきた人の言葉として、非常に重い。
 このように考えてくると、彼の小説に人気がある理由も、当然のことながら、もっと深い理由がありそうに思えてくる。
 一見何のことはない小説に込められた、一人の作家の思いを記述した貴重な証言だ。 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

小さな脳という観点

 友人から聞いたのだが、人間の脳というのは意外に小さいらしい。定かなことはわからないのだが、友人の話では「両手を握りしめてくっつけたぐらいの大きさ」だということである。普段自分が考えたり感じたり、といった自分の世界がこの大きさの中に入っていると考えるとなかなかのインパクトである。ショッキングと言ってもいいぐらいの印象があったものだ。
 さて、我々はもう少しこの事実をきちんと認識しなおすことが必要なのではないだろうか。ふとした時にこの事実が何かの役に立つこともあるのではないか、とそんなことを思うのだ。少なくとも、学校かなんかでこの事実をきちんと周知すると何かしらの効果があるのではないだろうか。特にこのような「脳」の重要性が大きい時代だからこそ起きている問題というのもたくさんあると思う。脳をそこまで信じちゃいけないよ、というアナウンスは我々の自尊感情を幾分コントロールするのに役立ちそうだ。
 いったん小さな脳という観点に立つと、とことん自分という存在が不甲斐ない存在に思えてくる。こんな脳のサイズで、よくいままで威張っていたなあ、と脱力してくるのだ。
 脳のサイズでこんなにも心持ちが変わってくる。人間というのはそういう生き物なのだ。
 ちなみに、これは、飲酒運転の防止にも効果がありそうだ。こんな脳のサイズでさらに酒を入れたら、そりゃ判断力もなくなるわ、と思えてくる。
 脳時代だからこそのリテラシーとして「小さな脳」という観点を忘れないでおきたい。

内田樹著「先生はえらい」を紹介する

 最初に断っておきたいのだが、この本はえらい先生がいる、という本ではない。それにもかかわらず、先生はえらい、ということを主張する本である。何を言っているのかすぐにはわからない。まるで禅問答のようである。
 結果的に「誰でも先生になれる」という話が本の最後に出てくるほどである。
 引用してみよう。「教えるということは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、少なくとも見かけ上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。」これは内田先生が引いているラカンという人の言葉である。
 つまり、この本は、誰でもなれる先生という職業がどのようにして偉大なのか、その理路を解き明かそうとする本である。
 我々が先生を慕うのは何故なのか、という問いに対する答えも当然意外なものとなる。それは先生がえらくないからだ。
 もしえらい先生というものがいて、誰もがその先生を尊敬していたら、その先生は、この本の言う意味では「えらくない」ということになるのだと思う。
「先生はあなたが探し出すのです。自分で。足を棒にして。目を皿にして。」と内田先生は書いている。
 確かにそうだ。我々は自分が労をかけて見つけ出したものしか大切にしない。例えば、お気に入りのインディーズ・バンドのようなものだ。この本の文脈によれば、インディーズ・バンドはまだ誰にも知られていないがゆえに、そのバンドを見つけたファンの女の子にとって、「『私が私であること』のたしかな存在証明」となる。そのことがおそらくインディーズ・バンドが大切にされる理由なのだろう。
 この本が主張していることはある意味明快で、「人間は自分が学べることしか学べない」という当たり前の事実を確認しているだけとも言える。
 それは発信者が高邁なメッセージを発信しているというよりは、それを「高邁だ」と誤解してしまう受信者の方に学びの契機が存在しているのだ、という教えである。
 その意味では、自分の好きなものを見つける力、は学びの力と非常に関係の深い力だということができる。そして、好きなものが多い子ほど、自己肯定感が強い、という事実もこの本に書かれている理路で説明することができる。
 先ほどの、「『私が私であること』のたしかな存在証明」というものだ。人は誰にも見つけられていない何か、に気づいた時に最も精神が高揚とするらしい。確かに、思い出してみても、他の生徒からすると、ただのオヤジにしか見えない理科の教師とかに夢中になる生徒が必ず二、三人クラスにいたが、彼女たちは皆楽しそうにしていた記憶がある。
「いまの若い人たちを見ていて、いちばん気の毒なのは『えらい先生』に出会っていないということだと私には思えた」と内田先生は書いている。
 自分の日常がつまらないと思っている人に是非読んでもらいたい好著だ。