ヒロカズの読書日記

このブログは、読書したことから、考えたことを書いていくブログです

本の紹介「自分なりの生き方を教えてくれる二冊」

 自分なりの生き方というものに憧れがある。最近そういった生き方の面白さに改めて気づかせてくれた本が二冊ある。「オリジナルに生きることの面白さ」というのがこの二冊の本のテーマであると僕は勝手に思っている。

・先生はえらい(内田樹著/ちくまプリマー新書

・「やりがいのある仕事」という幻想(森博嗣著/朝日新書

 

 さて、前者の本においては、人がオリジナルな存在たりうるのはどういった時か、ということについて事細かに論じられている。

 印象深いのは、誰もいない道の先に大金が落ちているのを発見した時に人がものすごい「ばくばく」感を感じるが、これこそ人が生きている実感を肌身に感じている状態なのだ、という謎の指摘だった。

 僕はこの内田樹先生の比喩がとても印象に残り、こうした体験をしたくてたまらなくなった。自分一人が何かに気づいている状況って、確かにすごく甘美なものだ。

 この体験を聞いて即座に思い浮かべたのは、大数学者のガウスのことだった。彼は天才の中でも相当な変態で、自分の発見を秘密裡にすることで有名な学者である。現在では歴史上最大の数学者に数えられる。

 「楽しみ」というものは本来誰かに見せびらかすものではない、という主張は「『やりがいのある仕事』という幻想」(森博嗣著)の方でも展開されていて、微妙にかぶる内容ではある。

 両先生が主張しようとしているのは、「オリジナルに生きるのってすごくワクワクするぜ」、「他人の価値観に振り回される人生虚しくね?」ということなのだが、どちらの先生もその論じ方は非常に個性的だ。

 内田先生の本に出てくる印象的な文をもう一つ紹介する。「先生というのは、『みんなと同じになりたい人間』の前には決して姿を現さないからです。」

 どうだろうか? なんとなくこの二冊のワクワク感が伝わり始めただろうか?

 我々が生きている意味に気づかせてくれる二冊だと思う。人生に疲れ果てた人、何か人生に物足りなさを感じている人、そしてもちろんこれから自分の生き方に何らかのスパイスを加えようとしている方にオススメである。

 

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 

 

「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書)
 

 

僕の周りの変わった人々①Hさん

 Hさんは若者に負けないくらいのエネルギッシュさを持っている。いつもギラギラと何かを追い求めてやまない永遠の夢追い人、それがHさんだ。

 Hさんと僕は最初、あまり打ち解けなかった。それは両人の性質の違いによるところが大きい。僕はどちらかというと、のんびりとした穏やかなタイプである。ガツガツと何かを追い求めることが苦手だ。

 最初、僕はHさんのこういうところが受け付けず、敬遠していたのだが、そのうちにHさんの純粋な部分が見えてきて、少しづつHさんを理解するようになっていった。

 僕とHさんは現在同じ施設に通っていて、たまに一緒に帰ったりすることがある。そんな時、Hさんは非常に僕に気を遣って話す。そういう生真面目なところがまたHさんらしい。僕としてはもっとリラックスして欲しいと思うが、Hさんと僕の距離感が結構離れているからか、こうした不自然な会話になるところも、それなりに味があって、僕は好きだ。

 実際、帰り際になると、僕はHさんのいいところを全然引き出せない。お互いに気を遣って、会話が収束してしまうのだ。未だ、僕はHさんの本心というか、本音というか、生の感情というか、そういうものには到達できていない。

 Hさんは、時々すごく具合悪そうにしている時がある。そんな時、僕は、Hさんが生活面で無理をしすぎているのだろうな、と見当をつけている。

 具体的に言うと、Hさんは歌の活動を本格的に行っているのだが、どうもそれが負担になっているみたいなのだ。

 僕はこうしたことにすごく共感が持てる。僕自身、最近まで、何かに急かされるようにして、趣味の活動に打ち込んでいた。すごく不自然な体勢で、生活しているような感じだった。

 Hさんも、生活面で何らかの苦しさを感じているのだと思う。そういった焦りが、Hさんを支配しているように思える。これは、僕自身がそうだったから、勝手に感情移入して見ているのである。

 Hさんのアグレッシブさというのには、僕は非常に覚えがある。

『ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」』(村上春樹著、「村上朝日堂」より)感想文

 勉強は嫌いだ、という人は多いと思う。僕は勉強に関する村上さんのこのエッセイがとても好きでよく読んでいる。僕も学生時代全く勉強しなかったのだが、でも何かしら毎日あったような気もする。でもそれを正面切って勉強とは呼びたくない。勉強に対しては誰でもそう言った二面的な感情を抱いているものだ。
 村上さんのこのエッセイはその辺りの学生の勉強に対する「勉強しなくちゃ始まらないけど、それを勉強とは呼びたくない」という基本的な姿勢がよく表現されている。
 勉強はしなきゃいけない、それはわかってるんだけど、何をどうしたらいいのかそんなに明らかじゃない。それに対して、村上さんは「とにかく遊べ」と僕たちを励ましてくれる。
 村上さんの場合は映画学科に所属していたため、「授業サボって朝から名画座で映画を見る」のが日課だったようだ。しかしここで村上さんの筆は冴え渡る。「授業をサボると言っても映画学科の学生が映画を見るんだから、これはれっきとした勉強である。」とはっきりこう言うのである。かっこいい。勉強せずに勉強する、という村上哲学のようなものを感じる素晴らしいエッセイだ。
 とはいえ、そんな村上さんも、「映画を見る金」には困らされたようで、そんなエピソードもこのエッセイにはサラッと書かれている。今の村上春樹を作った有名なエピソードなのだが、やはり、村上春樹は勉強家である。そのあたりの事情を知りたい人は是非このエッセイを読んでみてください。とても勉強になります。

 

村上朝日堂 (新潮文庫)

村上朝日堂 (新潮文庫)

 

 

最近友人からLINEが来た話

 土曜日の夜にふとスマホを開くと、LINEが来ていた。
 かなり珍しいことだ。見てみると、友人の、僕よりやや年配のNさんからである。
 Nさんはかなり色々なことに気を使う、結構繊細な方だ。色々なことを考えているし、感性がかなり独特に発達している方だと思う。言葉の端々から論理的に考える力がすごく感じられ、頭もいい。
 そんなNさんと最近では少しづつ仲良くなってきていた。僕としては自分とやや近しい性質をNさんに感じている。先に挙げた性質というより、これまでの生き方だろうか。
 自分の内に籠る傾向があること。人に対してバリアーが強いことなど・・・。
 そんなNさんが、近況報告してくれた。
 仕事を楽しくできていること。ストレスを溜め込み、上司に「仕事のしすぎだ」と注意されたことなど・・・。
 どれもNさんならではの状況で、僕としては少し心配になってしまった。
 特に、仕事が楽しい、と言っていたことについて・・・。
 無論、仕事が楽しいことはいいことなのだが、僕にとって、仕事ってつまらないと感じるくらいがちょうどいいという謎の感覚があるので、そこにひっかかりを感じた。
 翌日のこと。
 ちょうど森博嗣先生の「『やりがいのある仕事』という幻想」という本を読んでいた時のこと。ふいにNさんのことが思い浮かんだ。
 こんな一節にドキリとした。
「僕が指導した学生で、企業に勤めたものの一年とか二年で辞めてしまった、という人が何人かいるが、彼らに共通しているのは、事前に『仕事が辛くて大変です』とは言わなかったということ。逆にそういう愚痴を零す人は辞めない。どちらかというと、最初のうちは仕事が楽しいとか、面白いという話をする人の方が、あるときあっさりと辞職してしまうのだ。」
 Nさんは最近再就職を果たしたばかりだ。大丈夫だろうか、とふと不安になった。
 何となく、この森先生の説はわかるような気がするのだ。
 不満がないことは、実は余裕がない証拠、と森先生の本には書いてある。
 今度Nさんにそれとなく聞いてみようか。

 

「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書)
 

 

才能について(村上龍「おしゃれと無縁に生きる」を読んで)

 才能というのが何なのか、このエッセイの中で村上龍は何かを示唆しようとしている。
 冒頭で、村上龍はこんな風に書いている。「才能というのは、その人にペタッと貼り付いているわけでも、内臓のように体内、脳内に存在しているわけでもない。努力を続けることができる、それが才能で、それ以外にはない。」
 わかりやすい定義ではある。しかし、このエッセイはそれだけで終わらない。
 雨の中、友人である中田英寿氏がボールを蹴り続けていた練習風景が村上龍氏にとって、才能というものを如実に表すものとして記憶されたようだ。
 このエピソードはどのように才能を示唆しているだろうか。
 僕は一つには「孤独」というキーワードをこの情景からすぐに思い浮かべた。才能というのは孤独なものである。それを追求する努力はすべて自己の鍛錬それ自体に帰着される。
 セロニアス・モンク言うところの、「どれだけ頑張ったかで、どこまで行けるのかが決まるのさ」というイメージだ。
 また、一つには、いわゆる幸福というのとはまた、少し違うのだ、ということもこのエピソードは示唆しているように感じられる。
 雨の中、誰もいない練習場で、ボールと向き合う。それはどちらかと言えば、辛い鍛錬だ。
 ここで、村上龍氏の言葉が印象深い。「わたしは、今でも、豪雨の中、黙々とボールを蹴っていた中田英寿の姿を、ふと思い出すことがある。わたしもずぶ濡れになり、寒かったが、とても幸福な時間だった。」
 一見したところ、幸福には思えないこうした雨の中の練習。それは他人から見ると、一見異様な情熱に突き動かされているように見える。しかし、こうした情熱こそが人間の幸せの一つの形である、そうしたことを村上龍氏はさりげなくこのエッセイで言おうとしたのではなかろうか。
「こんな雨だし、すぐに終わるだろうと思いながら見ていたが、中田は、暗くなってボールが見えなくなるまで、蹴り続けた。」さりげない一文に、天才の孤独と、そこに燃える情熱がひそかに示唆される。素晴らしいエッセイだ。

 

おしゃれと無縁に生きる (幻冬舎文庫)

おしゃれと無縁に生きる (幻冬舎文庫)

  • 作者:村上 龍
  • 発売日: 2018/08/03
  • メディア: 文庫
 

 

小説を読むことの難しさ

読書というのは奥が深い。読書という魔窟に分け入ってしまったことに気づいたのは、18の時に小説を読み始めてから、15年後の33歳の今になってからだ。この歳月において、沢山の小説を読み漁ったが、この間に僕は読書から何一つ教えられることなく、ひたすらその魔窟の中で格闘を続けた。

この間に僕は少し成長したのかもしれない。ある日いつものように書店を徘徊していると、一冊の本が目にとまった。「レヴィナスと愛の現象学」というなんだか難しそうな題名の本だ。哲学書の類は苦手なのだが、「レヴィナス」という名前の響きや、「愛の現象学」というなんだか難しそうな学問と「愛」という言葉のミスマッチが僕の心にささやきかけるように誘い、僕はその本を手にとった。

すごく難しそうなのだが、そこに書かれていることは、はっきりくっきりと僕の目に飛び込んできた。長く読書をしていると、そういうことに敏感になってくる。字面が何かを訴えかけているのが、本を開いた瞬間にわかるようになるのだ。言葉遣いがすごくカッコいいな、というのが僕がその本に感じた最初の印象だった。小説以外の本にカッコよさを感じたのは初めてだった。

結局、その本と、「他者と死者」という同じく「レヴィナス論」という括りの同一著者の本を僕は購入し、その二冊をめでたく読み終えることに成功した。

人生初の哲学書通読体験となったわけだが、結局、その本を読み終えてわかったことは、「少しなりとも価値のある本とは、一読しただけではその価値がわからない本のことなんだな」ということだった。

その本自体、「難しいテクストとは一体どういう成り立ちをしたものなのか」ということを解説した本であるのだが、すごく長い筋道が通してあり、その理路を逐一理解して進むことは困難だ。なんだかよくわからないままに結論へと導かれてしまい、最後にはポカンとした「?」が沢山残される。

印象深い一節は、「読解から欲望へのシフト」(正確な引用ではないかもしれない)という言葉だった。ラカンという哲学者が難しく書く理由を、「ラカンは難しく書くことによって『テクストの語義を理解しようとするのではなく、ラカンを欲望せよ』と告げているのである」と著者は説明している。そして、テクストが人間の欲望に「点火する」仕組みをこれまた難しい議論を通うじて僕たちに開陳してくれる。

そして、欲望に点火する際に絶対不可欠なことが一つある。それは、読者がテクストの語義を一意的に確定できないこと、つまり、「わからない」というのがその条件なのである。

この「わからない」ということについて、著者は執拗に言い募る。それは著者の他の本「先生はえらい」という本でも同じである。わからない、ということがいかにコミュニケーションの根幹に深く関わっているのか、それがこの本を通じて理解し得た一つの重要な知見であった。そして、それは15年という長い歳月にわたって僕が小説を読み続けてきたことの一つの理由も明かしてくれたのだった。

要は、僕は「小説がわからない」のだ。ここに小説を読むことの面白さ、難しさは集約されているような気がする。

 

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2011/09/02
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

こんな天気いい、みたいな感じにされてもなあ・・・とダンゴムシの気分で思う

 今日は京都はすごく天気がいいのである。もう、ものすごくハッピー、うちら最高に気分がいいの!みたいな天気なのだ。南国リゾート地にいるかと見紛うようなキラキラとした陽光と、コンクリートに影を落とす緑の陰影が濃くって、なんだか若返ったような気になっちゃうくらいのテンションである。なんでこう世界の気分はあっけらかんと変わるのだろう?
 このところ暗いニュースが多かった。僕自身も世界の暗い情勢を鑑みて、もうちょっと自分の生き方を考えなきゃなあ、とか思って、暗い気分になることが多かった。まるでジメジメとして、日陰で生きるダンゴムシのような気分で暮らしていた。
 なのに、今日の京都のこの天気ときたら・・・・一瞬、「世界には何も悪いことなんかありません」みたいな感じがして、空恐ろしい感じさえする。子供が三輪車でノロノロノロ、と僕の脇を通過して、お母さんに、「〇〇子!(近くに知らない人が通っているでしょ!)」と注意を受けていた。平和なもんだ。
 どうしてこんな風に世界というのはさくさく気分を変えられるのだろうか? 今日の京都の天気を見て、「こんな天気いい、みたいな感じにされてもなあ・・・」と腑に落ちない気分を味わった人はいないのだろうか? 僕みたいに色々とうまくいっていない人はきっといるはずだ。
 なんとも天気のいい、素敵な休日である。大人になると、そんな休日を楽しめなくなる日がやってくるのだと、ようやく知った33歳の夏。これからの猛暑に耐えていくことを考えただけで、気力が萎えていく。今年はどうやら、日向で死にそうになっているダンゴムシの気分で夏を迎えそうだ。

(noteにて投稿 2020/06/07 16:53 )