ヒロカズの読書日記

このブログは、読書したことから、考えたことを書いていくブログです

最近友人からLINEが来た話

 土曜日の夜にふとスマホを開くと、LINEが来ていた。
 かなり珍しいことだ。見てみると、友人の、僕よりやや年配のNさんからである。
 Nさんはかなり色々なことに気を使う、結構繊細な方だ。色々なことを考えているし、感性がかなり独特に発達している方だと思う。言葉の端々から論理的に考える力がすごく感じられ、頭もいい。
 そんなNさんと最近では少しづつ仲良くなってきていた。僕としては自分とやや近しい性質をNさんに感じている。先に挙げた性質というより、これまでの生き方だろうか。
 自分の内に籠る傾向があること。人に対してバリアーが強いことなど・・・。
 そんなNさんが、近況報告してくれた。
 仕事を楽しくできていること。ストレスを溜め込み、上司に「仕事のしすぎだ」と注意されたことなど・・・。
 どれもNさんならではの状況で、僕としては少し心配になってしまった。
 特に、仕事が楽しい、と言っていたことについて・・・。
 無論、仕事が楽しいことはいいことなのだが、僕にとって、仕事ってつまらないと感じるくらいがちょうどいいという謎の感覚があるので、そこにひっかかりを感じた。
 翌日のこと。
 ちょうど森博嗣先生の「『やりがいのある仕事』という幻想」という本を読んでいた時のこと。ふいにNさんのことが思い浮かんだ。
 こんな一節にドキリとした。
「僕が指導した学生で、企業に勤めたものの一年とか二年で辞めてしまった、という人が何人かいるが、彼らに共通しているのは、事前に『仕事が辛くて大変です』とは言わなかったということ。逆にそういう愚痴を零す人は辞めない。どちらかというと、最初のうちは仕事が楽しいとか、面白いという話をする人の方が、あるときあっさりと辞職してしまうのだ。」
 Nさんは最近再就職を果たしたばかりだ。大丈夫だろうか、とふと不安になった。
 何となく、この森先生の説はわかるような気がするのだ。
 不満がないことは、実は余裕がない証拠、と森先生の本には書いてある。
 今度Nさんにそれとなく聞いてみようか。

 

「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書)
 

 

才能について(村上龍「おしゃれと無縁に生きる」を読んで)

 才能というのが何なのか、このエッセイの中で村上龍は何かを示唆しようとしている。
 冒頭で、村上龍はこんな風に書いている。「才能というのは、その人にペタッと貼り付いているわけでも、内臓のように体内、脳内に存在しているわけでもない。努力を続けることができる、それが才能で、それ以外にはない。」
 わかりやすい定義ではある。しかし、このエッセイはそれだけで終わらない。
 雨の中、友人である中田英寿氏がボールを蹴り続けていた練習風景が村上龍氏にとって、才能というものを如実に表すものとして記憶されたようだ。
 このエピソードはどのように才能を示唆しているだろうか。
 僕は一つには「孤独」というキーワードをこの情景からすぐに思い浮かべた。才能というのは孤独なものである。それを追求する努力はすべて自己の鍛錬それ自体に帰着される。
 セロニアス・モンク言うところの、「どれだけ頑張ったかで、どこまで行けるのかが決まるのさ」というイメージだ。
 また、一つには、いわゆる幸福というのとはまた、少し違うのだ、ということもこのエピソードは示唆しているように感じられる。
 雨の中、誰もいない練習場で、ボールと向き合う。それはどちらかと言えば、辛い鍛錬だ。
 ここで、村上龍氏の言葉が印象深い。「わたしは、今でも、豪雨の中、黙々とボールを蹴っていた中田英寿の姿を、ふと思い出すことがある。わたしもずぶ濡れになり、寒かったが、とても幸福な時間だった。」
 一見したところ、幸福には思えないこうした雨の中の練習。それは他人から見ると、一見異様な情熱に突き動かされているように見える。しかし、こうした情熱こそが人間の幸せの一つの形である、そうしたことを村上龍氏はさりげなくこのエッセイで言おうとしたのではなかろうか。
「こんな雨だし、すぐに終わるだろうと思いながら見ていたが、中田は、暗くなってボールが見えなくなるまで、蹴り続けた。」さりげない一文に、天才の孤独と、そこに燃える情熱がひそかに示唆される。素晴らしいエッセイだ。

 

おしゃれと無縁に生きる (幻冬舎文庫)

おしゃれと無縁に生きる (幻冬舎文庫)

  • 作者:村上 龍
  • 発売日: 2018/08/03
  • メディア: 文庫
 

 

小説を読むことの難しさ

読書というのは奥が深い。読書という魔窟に分け入ってしまったことに気づいたのは、18の時に小説を読み始めてから、15年後の33歳の今になってからだ。この歳月において、沢山の小説を読み漁ったが、この間に僕は読書から何一つ教えられることなく、ひたすらその魔窟の中で格闘を続けた。

この間に僕は少し成長したのかもしれない。ある日いつものように書店を徘徊していると、一冊の本が目にとまった。「レヴィナスと愛の現象学」というなんだか難しそうな題名の本だ。哲学書の類は苦手なのだが、「レヴィナス」という名前の響きや、「愛の現象学」というなんだか難しそうな学問と「愛」という言葉のミスマッチが僕の心にささやきかけるように誘い、僕はその本を手にとった。

すごく難しそうなのだが、そこに書かれていることは、はっきりくっきりと僕の目に飛び込んできた。長く読書をしていると、そういうことに敏感になってくる。字面が何かを訴えかけているのが、本を開いた瞬間にわかるようになるのだ。言葉遣いがすごくカッコいいな、というのが僕がその本に感じた最初の印象だった。小説以外の本にカッコよさを感じたのは初めてだった。

結局、その本と、「他者と死者」という同じく「レヴィナス論」という括りの同一著者の本を僕は購入し、その二冊をめでたく読み終えることに成功した。

人生初の哲学書通読体験となったわけだが、結局、その本を読み終えてわかったことは、「少しなりとも価値のある本とは、一読しただけではその価値がわからない本のことなんだな」ということだった。

その本自体、「難しいテクストとは一体どういう成り立ちをしたものなのか」ということを解説した本であるのだが、すごく長い筋道が通してあり、その理路を逐一理解して進むことは困難だ。なんだかよくわからないままに結論へと導かれてしまい、最後にはポカンとした「?」が沢山残される。

印象深い一節は、「読解から欲望へのシフト」(正確な引用ではないかもしれない)という言葉だった。ラカンという哲学者が難しく書く理由を、「ラカンは難しく書くことによって『テクストの語義を理解しようとするのではなく、ラカンを欲望せよ』と告げているのである」と著者は説明している。そして、テクストが人間の欲望に「点火する」仕組みをこれまた難しい議論を通うじて僕たちに開陳してくれる。

そして、欲望に点火する際に絶対不可欠なことが一つある。それは、読者がテクストの語義を一意的に確定できないこと、つまり、「わからない」というのがその条件なのである。

この「わからない」ということについて、著者は執拗に言い募る。それは著者の他の本「先生はえらい」という本でも同じである。わからない、ということがいかにコミュニケーションの根幹に深く関わっているのか、それがこの本を通じて理解し得た一つの重要な知見であった。そして、それは15年という長い歳月にわたって僕が小説を読み続けてきたことの一つの理由も明かしてくれたのだった。

要は、僕は「小説がわからない」のだ。ここに小説を読むことの面白さ、難しさは集約されているような気がする。

 

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2011/09/02
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

こんな天気いい、みたいな感じにされてもなあ・・・とダンゴムシの気分で思う

 今日は京都はすごく天気がいいのである。もう、ものすごくハッピー、うちら最高に気分がいいの!みたいな天気なのだ。南国リゾート地にいるかと見紛うようなキラキラとした陽光と、コンクリートに影を落とす緑の陰影が濃くって、なんだか若返ったような気になっちゃうくらいのテンションである。なんでこう世界の気分はあっけらかんと変わるのだろう?
 このところ暗いニュースが多かった。僕自身も世界の暗い情勢を鑑みて、もうちょっと自分の生き方を考えなきゃなあ、とか思って、暗い気分になることが多かった。まるでジメジメとして、日陰で生きるダンゴムシのような気分で暮らしていた。
 なのに、今日の京都のこの天気ときたら・・・・一瞬、「世界には何も悪いことなんかありません」みたいな感じがして、空恐ろしい感じさえする。子供が三輪車でノロノロノロ、と僕の脇を通過して、お母さんに、「〇〇子!(近くに知らない人が通っているでしょ!)」と注意を受けていた。平和なもんだ。
 どうしてこんな風に世界というのはさくさく気分を変えられるのだろうか? 今日の京都の天気を見て、「こんな天気いい、みたいな感じにされてもなあ・・・」と腑に落ちない気分を味わった人はいないのだろうか? 僕みたいに色々とうまくいっていない人はきっといるはずだ。
 なんとも天気のいい、素敵な休日である。大人になると、そんな休日を楽しめなくなる日がやってくるのだと、ようやく知った33歳の夏。これからの猛暑に耐えていくことを考えただけで、気力が萎えていく。今年はどうやら、日向で死にそうになっているダンゴムシの気分で夏を迎えそうだ。

(noteにて投稿 2020/06/07 16:53 ) 

リリー・フランキーとコラムの魅力

 僕にとって文章を生業にする人のイメージは作家ではなくコラムニストだ。
 作家の書く文章はもちろん大好きだが、彼らの書いた文章はなんとなく「職業」のイメージがない。彼らの書くものは優雅すぎて「それで食っている」という卑しさを超越したものだ。
 もちろん、彼らだってそれで食べているのだが、なんとなく、アンニュイな雰囲気を醸し出しているのは圧倒的にリリー・フランキーというコラムニストの書いたコラムだった。
 彼のコラムには、「仕事で書いているんだから」というようなやっつけ感がどことなく感じられ、僕にはそれがたまらなくシビれる大人の魅力に感じられた。
「仕事している」+「文章という自分を表現するアクション」この二つの項に、「倦怠感」が加わると、たまらなくセクシーな魅力へと転ずる。その魅力に当時中学生だった自分は完全にやられてしまったのだ。
 もちろん、それですぐにかっこいいな、と思い、コラムニストになろう、とか思えるようなレベルの文章ではなかった。リリー・フランキーという大人のダルい日常(このダルい日常という感覚がなかなか中学生にはわかりにくい)をコラムで垣間見るにつけ、どこかにこんなかっこいい日常を送っている大人がいるんだ、と憧れを募らせるだけだった。
 考えてみるに、僕の中でかっこいい大人、のイメージはリリー・フランキーのコラムによって作られたと言っていいと思う。なかなかにロマンチックな話なのだが、読んでいる人にこの感覚が伝わるかは、ちょっとわからない。
 近所に住んでいそうで、なかなかいないちょっとかっこいい大人。それが僕にとってのリリー・フランキーのイメージだ。そんな近いようで遠くにいる大人の背中を垣間見ることができたのもコラムの魅力だった。僕が雑誌を好きだった理由はこんなところにあるのだと思う。 

 

エコラム (新潮文庫)

エコラム (新潮文庫)

 

 

布団の似合わない男

 つい先日のことだった。とある友人と寝る前の楽しみについて話していた折のことである。一日の終わり、その日を締めくくるに足るイベントとして、どんな楽しみを享受しているか、そういった話題だったのだが、その方は、なんと、すぐに布団に入って寝る、という恐るべき答えをのたまった。
 それは、その方がおれの担当の看護師の方だからかもしれない。おれは友人として認識しているが、その方からしたら、おれは担当の患者である。そういった意味で、遠慮して回答した可能性も十分にある。
 なんというか、男らしくないな、とおれはなんとなく思ったのだった。奇妙に聞こえるかもしれないが、すぐに寝る男はなんとなくワイルドさに欠けるというか、大人しすぎる。
 その方の髪形を考えたとき、なんとなくげんなりしてしまったことは事実である。
 というのも、その方は、ガタイもよく、日焼けして、ジムによく通い、女を好み、強面風の顔つきをして、週末は友達と飲み歩いている。
 そういった事実は、日々の会話の中でリサーチ済みだった。
 そんな男が、日夜、布団をかぶって、スース―寝ているところを想像して、なんとなく拍子抜けに近い感覚を味わった。この男は、布団が似合わない、という無理な注文をつけている、と気づいたのは、その日、部屋でその男と話したずっと後のことだった。
 そのときに気づいたのは、なんというか、おれの中で、その男というのが一種スーパーマンのような、神話的な存在として記憶されているという意外な事実だった。
 ひょっとすると、この男は眠らないのではないか、という勘違いをおれの中で育むような要素がその男にはある。あふれるバイタリティのようなものが体中から発散されているのだ。少々大げさに言えば、アラジンに出てくる「ジーニー」のような感じと言えば伝わるだろうか。おれはこのとき、その勘違いを恥じた。この男も立派な一人の人間であり、眠ることは当然の権利である。おれは想像の中で全くその男を眠らせていなかった。
 これまでその男にはさんざん世話になってきた。布団が似合わない男でも、眠ることはあるという単純な事実を忘れてはいけない。

「終わった」という言葉と終わらない現実について

 よくテンパっているときなどに、「終わった」という言葉を吐いてしまうことがある。
 この言葉はなんとなく不思議なニュアンスを帯びている。
 我々が「終わった」と言うとき、事態はまさに「始まっている」からだ。
 言葉というものは往々にして反対の意味を帯びるものだが、この言葉もその例にもれず、「終わった」という言葉で終わりを意味するわけではなく、実際に含意しているのは、むしろ、「終わって欲しい」、「もしここで終わりだったらどんなに楽だっただろう」といった逃避の含意がある。つまり、「終わった」という言葉には、「終わらない現実」の残酷な刻印がまさに刻まれているのだ。
 ゲーム中毒者は現実をリセットできると思っている、などとよく叫ばれたが、このステートメントには面白い含意がある。ゲームにおいて、最もリラックスする瞬間、最も心が安らぐ瞬間とは、たとえばマリオワールドなどで言う、マリオが「死んだ」瞬間、つまりゲームオーバーの瞬間である、という心理だ。
 この心理により、我々は安心してゲームをすることができる。というより、ゲームの最も甘美な瞬間とは、やはり、このマリオが死ぬ瞬間だ、と言わざるを得ないと思う。
 死ぬことができる、その一点がゲームの面白さを支えている。
 最高に深刻な瞬間。緊張が最も高まった時、往々にして我々の手が滑り、キャラクターは奈落の底へ落ちていく。そこにある安心感。
 我々が現実において、「終わった」と口にするとき、事態は全然終わらない。
 当たり前だが、現実においては、その終わらない悪夢とともに生きるしかない。
 我々は何度も死の予行演習を重ねて、それに備えるしかないのだ。