「お金の減らし方」森博嗣著(SB新書)紹介文
「お金の減らし方」とは不思議なタイトルの書物である。僕はこのタイトルに惹かれてこの本に興味を持った。
きっと森博嗣流の面白い考え方に触れることができると思ったのだ。
本書の中で、お金に困っている人に対して、森博嗣は次のような議論をふっかける。
そもそも、必要、とはなんだろうか?
お金に困っているなら、スマホをやめたらどうなのか?と森博嗣は言う。
それに対して、そんなことは無理だ、という反論が必ず出てくるのは想像に難くない。それは、スマホは生活に「必要だ」という主張である。それに対する森博嗣の考えは以下のようなものだ。
森博嗣の仕事に関する哲学として、次のようなものがある。
仕事とは、やりたいことをするために我慢することである。
これを少し詳しく説明しておこう。
自分のやりたいことの実現のために、自分のエネルギーと時間を差し出して賃金を得ること、それが仕事である、という考え方だ。
したがって、お金の使い道として最初に確保すべきなのは、楽しみに使うことだ、と彼は言うのである。
楽しみに使う金額を先に決めて、そこから他の支出を振り分けていけば、「必要」にかまけて、「楽しみ」が蔑ろにされることはなくなる。
この楽しみに振り分けられる費用を森博嗣流に言うと、「防衛費」と言う。自分の生きていく意味を守る費用ということだ。
森博嗣にとって、自分の楽しみ(彼の場合は鉄道模型の製作)は生きていくことを支えてくれる重要なファクターだ。その価値が過小評価されることは許されない。
こんな風にして森博嗣はお金を管理しているのである。
つまり彼にとっては、楽しみ>必要、という不等式が成り立っていると言っていい。
また、彼の趣味は鉄道模型の製作であるから、楽しみで使ったお金は徹底的に消費される。
「買って自分の持ちものにする価値とは、それに触れること、それをいじること、それで遊ぶこと、あるいは、壊したり改造したり、違うものに加工すること、新たなものを作り出すことである。それは、自分の所有物にしなければできない行為だ。」
このようにして、森博嗣は、徹底的に自分の楽しみを中心にしてお金を使っているがために、お金を減らすことが全く苦ではない。それどころか、お金を使う時に、お金は価値を発揮するとはっきり言い切っている。
自分の楽しみのためにお金を「減らす」ことばかり考えているという。不思議なお金の価値観を持った人である。面白そうと思った方は是非本書を手に取ってみてください。きっとお金に対する見方がずっとクリアになると思います。
おじいさんと自分だけの生き方
自分だけの生き方とは何だろう?
最近よくそんなことを考える。
自分の人生がつまらない理由が最近なんとなくわかってきたのは、自分だけの人生、というものに思いめぐらせるようになったからだと思う。
きっかけは色々ある。見栄やプライドといった余計なもので身動きが取れなくなっている自分に気づけたことが大きいだろうか。
「一つの視点からばかり物事を見ていると、フットワークが鈍くなる」というのは僕の大好きな村上春樹さんの言葉だが、こうした状態から僕を救い出してくれたのは、周囲の人々を見ていた時にふと思いついた一つの考えだった。
「僕がこのよぼよぼのおじいさんだったら、自分はどう生きるだろうか?」
そんな風に思った時、すごく気分が軽くなったのを感じたのだ。
「そうか、おれはこのよぼよぼのおじいさんのように生きればいいのではないか?」と。
どういうことか。それは色々なことを諦めるということだ。
おじいさんのことは街の中の誰も注視していない。その自由さ。
「自分というものはいつも自分を見ている神様のような存在」というのは森博嗣の言葉だが、まさに、このおじいさんに残されているのは、自分、という存在だけなのではないか、と思ったのである。
僕が街で見かける人々は、自分のことだけを考えて歩いているように僕には見える。
それに対する憧れが自分の中にあることに気づいたのである。
冒頭で述べた、自分だけの人生、というのは、「オンリーワンの人生」といった格好のいい意味ではなく、その文字通り、自分一人が生きている人生、という当たり前の事実を確認する意味合いがある。
「もっと自分一人だけが見ている光景というものを持ってもいいんじゃないか」
ここにはそんな一人で生きていくしかないという諦めと、その上で自分にできることを探そうとする意志が垣間見える。
「自分というものはいつも自分を見ている神様のような存在」
この言葉の頼もしさを感じた。
森博嗣著/「やりがいのある仕事」という幻想(朝日新書)を読んで
楽しみを見つけることは難しい。そんなことを森博嗣の新書を読んでいてふと思った。
そこに出てきたのは、仕事やあるいは物事全般を「楽しい」と思い込む人々の話だった。
さらには、周囲から羨ましがられたいとの思いから、「楽しい自分」を演出してしまう、そんな人々の姿だった。
僕自身、生活していくからには楽しく生活していきたいと思っているし、何かやりがいを見つけなきゃ、と焦っている部分も正直に言えば少なからずあった。
でも、森先生の鮮やかな人物描写を見ているうちに、「俺もそんな生き惑う人々と同じように焦ったり、迷ったりしながら好きなことを見つけていければいいな」というなんとも和やかな気持ちになったのは自分にとってもすごく不思議な感想で、この本を読んで良かったと思ったのはそういう部分だ。
本書の主張は、仕事という領域に限らず、「自分なりの楽しみ」を見つけた人生が最も幸福なのでは?というものだ。
自分中心に生きるか、他者からの評価に惑わされながら生きるか、の分かれ道がそこにはある。
楽しみを持っている人は、自分中心に生きることができる。
そうでない人は、自由を持て余し、自分で人生の舵を取ることに失敗する。
なんとも難儀な時代だと、この本を読んで思う。
僕自身、何度もインターネット糞食らえ、SNS糞食らえ、と思ってきた人間だ。
他人に対する見栄に疲れた人や、自分自身の生き方を見出せずに焦っている人に是非お勧めしたい。
それでもいいよ、と思わせてくれる要素がこの本にはあるようだ。
アンチ整理術(森博嗣著)紹介文
この本は自分自身の身の回りを整理・整頓することを通して、「自由な生き方」を手に入れよう、という趣旨の本である。
「自由な生き方」というと非常に広範な意味合いがあるが、要は、他人に惑わされない生き方、自己決定する生き方のことだ。
どうすればそのような生き方が手に入るのかというと、まずは「散らかった自己」というものを把握する必要がある。
自己が散らかっている、というのはすぐにはイメージしづらいかもしれない。この本の中では、理想と現実を客観的に把握できておらず、また周囲の目という「仮想他者」を過剰に意識した状態、ということになる。「仮想他者」というのは、人々が気にする他者という虚像のことであり、インターネット環境が整備された現在、ネット空間に存在する他者の目のことである。
こうした他者を過剰に意識し、理想と現実の把握ができていない状態は、極端に言うと、妄想状態、「夢を見ている」状態と言うことができる。
過度に高い理想に苦しめられた状態は人間にとって非常にストレスフルな状態と言える。
現実を真っ直ぐに見ない人はただの夢みがちな人にすぎない。
また、インターネット環境が整備された今の時代、「仮想他者」はネット空間の至る所に散らばった虚像と言える。
この状態を抜け出すことが大事だ。そうすることで、地に足のついた思考を手に入れることができる。
では、この状態を抜け出さない場合はどうなるだろうか?
端的に、夢の中に生きることになるのだ。
人々はこうした選択を生きている限り強いられていることになる。
しかし、この選択も自己の整理・整頓の内に含まれる。
つまり、こういうことだ。自己の整理・整頓とは、自分の価値観を整理すること。その上で、自分の現状、未来について考え尽くすこと。これは、自分の可能性を知ることにも繋がる。
自己の整理・整頓とは、自分一人で判断・決定し、行うことである。
これが、自分と向き合う生き方の面白さを教えてくれる。
これがすなわち「自由に生きる」ということなのだ。
整理・整頓する過程を通して、「自由に生きる」ことを学べるのが、本書の醍醐味だ。
村上春樹と勉強の哲学
村上春樹は勉強に対してすごく深い哲学を持っている。
彼の著書「村上朝日堂」に入っている「ビリー・ワイルダーの『サンセット通り』」というエッセイはそんな彼の勉強に対する哲学を垣間見ることのできる逸品だ。
彼が言っていることは、勉強というのは「正面切って」やることじゃない、ということだと僕は思う。
どういうことかというと、「さあ、勉強するぞ」と思って机に向かったとして、そこで行われる勉強は、なんというか、すごく機械的だ。
まるで、強引にさせられた校庭二十周の刑のように、全く美しくない思い出として、体がその記憶を止めていたとして、「ただしんどかった」程度のものになる。
その勉強の記憶が本当に後々に残るのか、という疑問がすごくあるのだ。
往々にして、意識的に行ったことというのは、忘れやすいものである。
そんな悩ましさが勉強にはつきまとう。
村上春樹のエッセイでは、彼が人間としてどう生きていきたのか、それが如実にわかるようになっていて、すごく面白い。
面白いのは、彼が映画学科に所属していたという事実である。
村上春樹が大の映画好きで、小説作法の大半を所属していた早稲田大学に付属する博物館でシナリオを読むことによって体得したことは、村上春樹ファンの間では、すでに語り草になっている。
彼によれば、「授業をサボるといっても映画科の学生が映画を見るんだから、これはれっきとした勉強である。」とのことだ。
誰にでも覚えがあると思うけど、授業サボって見る映画だったり、読む小説だったりって、すごく身に沁みるものだ。それが自分だけが見つけた分野の勉強だったりすると、「俺はまだ誰もやったことのない分野の勉強をしている」みたいな感覚に陥って、それがまさに特別感になって、勉強に身が入るものだった。
そんな風にして、村上春樹が勉強していたというだけで、なんとなく親近感が湧く。
そういえば、片付けの最中に見つけた漫画本なんか、すごく熱中して読んだりしていた。
感覚としてはそれに近いだろうか。
映画学科に所属していた若かりし頃の村上春樹を知ることのできる貴重なエッセイだ。
生きることとシンプルさ
生活スタイルを一新した。
理由は色々とあるが、「アンチ整理術」(森博嗣著)を読んだことが理由として大きいかもしれない。
様々なことに疲れていた。自分の手に負えないことを抱え込みすぎていたように思う。
本のいいところは自分では気づかないまま溜まっていった心の歪みに気づかせてくれるところだと思う。
「本の読める場所を求めて」(阿久津隆著)も同時に読んでいるが、この本も自分の生活について考え直す機縁として非常に有効だった。
どちらの本についても共通するのは生きていく上での原則のようなものが非常にすっきりしているということだ。何を求めているのか、そのためにどうするのが一番最適なのか、そうしたことがすっきりと述べられているので、読んでいるこちら側の姿勢がすっと良くなってくるのだ。
「アンチ整理術」は整理というものはそもそも必要なのか?といったように、そもそもの起点に立ち返って進められる論が心地よい。一辺倒の常識ではなく、常識と思われている固定観念から自由になって、「個人の生き方」を立ち上げようとする議論から、気づかされることは多い。
「個人の生き方」とはつまり、やりたいことがはっきりしている生き方である。そして、その実現のために様々なことを徹底して考え抜くということが、すなわち人生である、という単純明快な哲学がそこにあるように僕には思え、それがたまらなく明快な考えに思えた。是非真似してみたい、と思った。
シンプルさ、という点では村上春樹もそうだ。以前のnoteでも紹介し、僕自身、自分が生きる指針としてきた、「文章の書き方」にも、そのシンプルさが垣間見える。
村上によれば、文章の書き方に悩むくらいなら、生きることに専念しなさい、その方がよっぽど簡単でしょ、ということだ。
彼にとって、生きる、ということはシンプルで何より信頼するに足るものなのだ。
今まで、僕はこのエッセイを読むたびに、村上の言う「生きる」と言うことがどういうことなのか、わからなかったし、その言葉に込められた「何か」に非常な憧れを感じたものだった。
今、その理由がわかりつつある気がする。鍵は、シンプル、というこの概念だ。