ヒロカズの読書日記

このブログは、読書したことから、考えたことを書いていくブログです

大人であることの子供っぽさについて(村田沙耶香著『「年齢にあったいいもの」の謎』を読んで)

 一言で言うと「ブランドものつけるような歳になっちゃったんだよな〜。参ったな〜」という内容のエッセイ。しかし、そこには当然のことながら、「大人であるとはどういうことか」という哲学的なテーマが見え隠れしている。それが村田沙耶香さんのエッセイのなかなかに深いところだ。
「この歳で・・・・」という言い方は確かに怖い。そんな風に決めつけられるとなんとなくそれに従わなければならないような気がしてくる。
 村田さんも、「自分の好きなデザインのものを、値段やブランドに関係なしに身に着ける。それが真の大人だと理屈ではわかっているのに、強い言葉で、『その年齢だったら……』と常識のように教えられてしまうと、気持ちがゆらゆらしてしまう。」と嘆いており、その呪縛を解くのはなかなか大変そうだ。
 どうすれば自分の「好き」を貫くことができるのだろうか?
 村田さんのこのエッセイを読むと、大人になるということは、そのような単純な問いに答えることではないということがうっすらとだがわかってくる。
 大人であるというのは、日常的に、自分も「まだまだ子供だなあ」と実感させられるような経験なしには実感することが難しい体験なのだ。
 大人であるというのは本質的に「子供っぽい」ことだ。
 ブランドもののバッグを身に着けて「大人の素敵な女性」っぽい自分を実感することは「子供っぽい」し、真の大人は……という言い方からして「子供っぽい」ものである。
「大人」を追求することにはそうした「子供っぽさ」が否応なくついてまわる。そして、そのような「子供っぽさ」を身にしみて実感することが、大人への階段の入り口になっている、そういったメッセージをこのエッセイから読み取ることも可能であるような気がする。

 日常の中で、「自分もまだまだ子供だ」となんとなくほっとする気持ちは誰にでも経験があるだろう。村田さんはそうした瞬間にこそ大人の脆弱な部分が露呈すると指摘する。
「鏡の中の『もう子供じゃない』自分」が襲いかかってくるからだ。大人であることはかくかように、「子供であること」と不可分なのだ。僕はこのエッセイからそうしたメッセージを受け取った。 

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